笠井屋(2)
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笠井屋 歴史のあしあと・・・其の六 |
すだれが何となく、京都祇園のお茶屋風
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母家2階8+8+6+5畳=27畳間。床の間掛け軸は「明治天皇」と勅語
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5畳間より雪見窓〜女中部屋を見る
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取り外し式、座敷上の簀戸&障子
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某有名彫刻師(?)の手による欄間
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笠井屋母屋の2階、物置として足の踏み場もない、ネズミの巣状態でしたが、数十年ぶり(?)片付けを行い、何とか昔の姿を取り戻しました。2階は8+8+6+5畳、襖を外すと27畳の通し部屋になります。また母屋北側・屋根裏部屋3畳+板の間、は女中部屋だったところです。
H24.8.22 |
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笠井屋歴史のあしあと・・・其の伍 |
右「山五の酢」、左「鳩居堂」の看板
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山五の酢の看板、遠州豊濱の文字が見える
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今もおなじみ、鳩居堂のお線香
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「特約店 笠井屋商店」の文字が彫られてます
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明治時代〜昭和30年代まで、笠井屋は漬物問屋を営んでいました。店では山五の酢や鳩居堂のお線香などを販売していました。今となっては懐かしい看板です。 |
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笠井屋歴史のあしあと・・・其の伍 |
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漬物問屋「笠井屋」の前掛けです。電話二十四番ということは、廃業する寸前、昭和30年付近のものと思われます。 |
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笠井屋歴史のあしあと・・・其の四 |

H21.1.16恵比寿様・大黒様と黒牛様 |
いったいいつの頃からここにいるのか?店の棚の一角にお祀りしている恵比寿様・大黒様、それに黒牛様。角や耳の部分など、あちこち欠けたり折れたり、とにかく大昔からここに飾られていたようです。今年は丑年なので、」久しぶりに日の当たるところへ出してみました。
※あちこち欠けているのは、誰かさんが小さい頃におもちゃにして遊んだから? |
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笠井屋、歴史のあしあと・・・其の参 |

H19.3.11 笠井屋本家の屋根上から、西向きに山正さんの三階建の家を見る |
その昔、自分が小さかった頃はよく屋根に乗って遊んでいました。屋根の上から見る景色が好きで、いつもの見慣れた町並みが、まったく別の場所のように見えました。瓦は半分ずつ南側を新品に、そしてその南側の瓦を北側へ葺き替えていたということです。今では、すっかり「イ」がなくなってしまい屋根の上を歩いただけでミシミシと音を立てて割れてしまいます。修理もままならないので、そぉっとそのままにしてあります。 |
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お気に入りの一枚

97’マップル静岡全県版(昭文社) 「不思議町を歩く」より (岡谷俊夫氏撮影)
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こんなものも&あんなものも・・・ |

笠井屋は戦前までは「山伍」の酢を販売していました。これはその当時の通い徳利です。
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裏の倉庫の屋根にのっていた「おかめ」の鬼瓦。
ずいぶんお祭り好きの御先祖様だったようで・・・(笑)
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売り物?見世物?変なもの?店内あれこれ
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傘貼りの糊を溶いた当り鉢(非売品です)
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軟陶・織部の水コンロ
(非売品です)
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油皿(菜種油を入れ、籐芯で灯をともす)
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大きな蝋燭立て
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野花立て
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赤猫は「厄病除け」
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「風水」の黄色い猫
品切れです(-_-)
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陶面
故・黒田哲夫氏(青梅市)之作(非売品です)
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有田焼の大皿
(川中島の合戦)
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クラフトの武者人形
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シンガポール製
壁掛け花瓶
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信楽焼
土管かめ
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春野産
本山椒の当り棒
入荷しました
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大っきな湯冷まし
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窯豚人作
吊るし花瓶
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店の中を見まわすと・・・ |
火打石と板付け鎌
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見上げると、そこには長提灯が・・・
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天井は昔のまんま
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居間への引き戸も昔のまんま
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インドネシア製
香立てに使ってます
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招き猫のタペストリーbyよしこ
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「冬の瀬戸物屋」
故・原田政太郎氏之作
(菊川市)
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「夏の瀬戸物屋」
故・原田政太郎氏之作
(菊川市)
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笠井屋手描きチラシ
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手描き観歩記マップ
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笠井屋、あれこれ歴史のあしあと・・・其の弐 |

H18.11.29 前々からの懸案事項だった、屋根の上のアンテナが取れました |
笠井屋の母屋(お店)の屋根に立っていた、テレビアンテナがようやく撤去しました。以前から景観上の理由で気になってはいましたが、先日の台風でアンテナの素子が吹っ飛んでしまい、ついにアンテナとしての機能がなくなりました。そこでこの際、との思いからアンテナを取りはずして裏屋へ移設、屋根の上が本当にすっきりしました。
※こんな小さな変化は誰も気がつきませんが、屋根を見上げては1人でニコニコしています(笑) |
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笠井屋、あれこれ歴史のあしあと・・・ |
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H18.2.23 「江戸時代の家の基礎石」
水道工事で店先を掘り起こしたところ、江戸時代・安政年間に建てた家の基礎石が出てきました。言い伝えによりますと、笠井屋の初代・孫右ヱ門は赤佐村(浜北市)の出身で、何かの理由で村を出て、ここ遠州横須賀にたどり着きました。そして三熊野神社前でついに力尽き、行き倒れとなっていたところを「かどや」さんに助けられ、握り飯2ヶをいただいたそうです。そして「お前はどこから来たのか?」「赤佐村から」「どこを歩いてきたんじゃ?」「笠井街道」「そうか、それならあそこに一軒空き家がある。あそこで“笠井屋”と名乗って住めばいい」と、言ったとか・・・以来7代にわたって、ここに住み続けているわけなんです(笑)
この「基礎石」の話は、今から30数年前、店を「タタキ」からコンクリートにした時に、話は聞いていましたが、見るのは初めてでした。ひょっとすると、安政地震で建替えた以前の家のものかも知れないとのことでした。(現在の家は基礎の一部を安政4年に、明治40年には間口4間半の総二階に大改築、今の家の姿になりました)横須賀の歴史の長さを感じさせる話じゃありませんか!
※この基礎石は再び地中へ埋め戻しました。今度はいつ? |
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遠州横須賀へお越しの際には、ぜひお立ち寄り下さい
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